雪が降っていた。
深々と降り積もる雪は、大地を覆い尽くして純白に染め上げる。
それはこの建物も例外で無く、巨大なその姿を雪に覆われ、静かに佇んでいた。
人の作り出した光の一切が失われ、死んだようにその動きを止めた建造物は、ある種の畏敬と不気味さを周囲に振りまいていた。
そして、全ての生物が眠りについていた時、それは起きた。
爆発音、破砕音、そして警報の音。瞬時にその目を覚ました建造物は、しかしその瞬間には既に瀕死の獣となっていた。
建物の彼方此方が吹き飛び、その傷口から紅蓮の炎が舞い上がる。
あたかも巨大な大蛇の舌の如く、天に向かって伸び上がる炎は一種異様な美しさを持っていた。
何が起きたか判らずに逃げ惑う白衣の人々、誰かを探す制服姿の男達、そして断末魔の叫び声を上げる建物。
その全てが雪化粧の中で繰り広げられていた。
そして。
そんな光景を見る事も無く、少女は雪の大地を踏みしめながら走っていた。その傍らに唯一の、鋼の相棒を並ばせながら。


『鋼の翼』異聞

異翼、彼方より来たる


「大家さん、いる?」
「んな、今更遠慮する事もねぇだろ」

マナは青年宅の玄関を少しだけ開けて、中を覗き込んだ。
ヘルが面倒臭そうにぼやくが、それでも一応確認。
鍵がかかってない時点で在宅しているのは確かなのだが、青年の事だ。鍵もかけずに外出も在り得ない話ではない。
流石に留守宅に上がり込むのは気が引けるのだが、幸いな事に玄関には青年の靴が丁寧に揃えられていた。

「ん、いるみたいだね」

ほっと一安心。わざわざ青年の家まで出向いてきて留守だったら流石に少し落ち込んでしまう。
ヘルがやれやれといった様子で首を振るが、マナはそれを気にもせず上がりこむ。
勝手知ったる他人の家というか、マナやヘルに限って言えば留守中に上がりこんでも青年は何も言わないだろう。
それどころか嬉々として推奨する恐れすら在り得る。

「大家さーん?」
「あ、マナマナ、いらっしゃい。あとヘルも」
「……取って付けた様に言うな」

青年は台所で何やらしていたようで、布巾で手を拭いつつ姿を見せた。
妙に所帯じみて見えるのが面白いが、既にマナもヘルも見慣れてしまった。
少し照れたように笑ってみせるマナに、青年が優しく声をかけた。

「お昼、まだでしょ? 食べていけばいいよ」
「お、いいのか。よし、ついてるぞ、マナ」
「ちょ、ちょっと、ヘル……」

マナが少しだけ慌てるようにヘルを制する。だが、何時もの如く青年に押し切られるのは目に見えている。
それに何のかんの言いながら、マナ自身も青年の料理は好きなのだ。結果、三人並んで食卓を囲む光景が出来上がる。
美味しそうに食べてくれるマナを見て、青年も優しく目を細める。
団欒とは縁遠い生活を送ってきた青年には、それだけの事がとても嬉しく感じられるのだった。

「ごちそうさま」
「お粗末様でした」

食べ終えて、後片付けをする青年をマナが手伝う。ヘルはと言えば茶の間にて悠々とTV観賞。
マナが何か言いたげに青年を見上げるが、当の本人は気にもせず「こうしていると何だか新婚さんみたいだねぇ」と耳元で囁いて、マナを赤面させる始末。
真っ赤な顔で俯いてしまったマナを見ながら青年が笑う。その笑い声を聞きながらヘルが、相変わらず変わった奴だと溜息を一つ。

「ごめんね、今日はちょっと人が来るから」
「あ、ううん。気にしないで、いきなり来た私達が悪いんだもん」
「なんつーか、メシ喰いに来ただけだな」

済まなそうにそう謝る青年に、マナが手を振って応える。
逆に、如何に人が来るからといって昼前に現れて、食事をしてさっさと帰っていく自分達の方が居心地が悪い気がしてならない。
こちらもまた済まなそうにしているマナに、青年が一転して笑みを向ける。

「また明日にでも来てよ、色々用意しておくから」
「あ……うん」

嬉しそうに答えるマナを玄関まで見送って、青年は自室に戻る。
広めの部屋に入って、机に向かおうとしてふと何かに思い至る。
机の上に開かれたノートを捲り、『マナ』と書く。次いでその隣に今度は漢字で『真名』と書いてみると、青年の表情が微妙に緩む。

「『マナ』から『真名』に転じて『真の名』ね……となると、逆は『仮の名』で、『仮名』……『カナ』?」

それじゃあ何処ぞの双子タレントか。何でもない思いつきに、青年が苦笑する。
窓から外を眺めると青空を雲が通過していく。普段と何ら変わらない日常の風景。
そう、何時もと変わらぬ日常の筈だ、『少なくともこの瞬間までは』。



少女は黙って眼下に広がる街並みを見下ろしていた。
大勢の人が行き交う道を眺めながら、しかし少女の瞳はその人々を捉えてはいなかった。
感情色に乏しい瞳はただ一点だけを見つめ、吹きすさぶ風にも決して揺るぐ事が無かった。

『確実に近づいている、もうすぐだ』
「……うん」

傍らから聞こえた相棒の声に、少女が僅かに口を開く。
その姿を横目で見ながら、相棒は少女の心の内を探ろうとしたが、やがて諦めた。それは意味の無い事だった。
例え少女がどのような思いを抱き、どのような行動を取ろうとも、彼はそれに付き従うしか選択肢が無いのだから。
それが彼が自分自身に課した『贖罪』なのだから。



「で、どうするよ?」
「どうするよ、って言われてもね……」

マナはヘルの問いに困った様に、少し考え込んだ。
青年のところでお昼をご馳走になってから、まだ一時間と経っていない。
そのまま帰るのも何か勿体無いので、暇つぶしに駅前まで歩いてきたのだが、特にコレと言って見たい所がある訳でもない。

「んむぅ、ヘルとじゃ面白くないなぁ」
「……さり気に酷い事を言ってくれるね、お前」

傷ついた様子でマナを睨むヘルだったが、マナは特に気にしていないらしく、通り過ぎる店々のウィンドゥ越しに商品を眺めながら何やら一人で呟いていた。
その様子を見ながら、ヘルが溜息を一つ。
最近、青年が忙しく構って貰えないのが寂しいのか。
その辺は不器用なマナであるから、ヘルなり青年なりが上手くフォローしなくてはならない。
今度青年に一言言っておこう、そう考えたヘルの頭の中で警報が鳴る。

「っ!?」

歩む足を止めて周囲をセンサーで探る。
だが、今感じた――明確な敵意や殺意ではない、何か『嫌な感じ』をする物は少なくともこの周囲には無いようだ。
突然足を止めたヘルを訝しく思ったか、マナが振り返りながら首を傾げた。

「どうしたの、ヘル?」
「ん、あぁ……何でもない、気の所為だ」
「……変なヘル」

マナがそう言って笑う。『嫌な感じ』は消えた訳ではなかったが、とりあえずヘルは再び歩き出した。
マナと並んで歩くその光景を、じっと見詰めている瞳がある事に気付かずに。

 

瞳の持ち主である少女はただ黙って佇んでいた。
今、その瞳に映る一組の姿を見つめながら、ただ黙って動きを追っていた。
僅かにその横顔に表情の変化を読み取った傍らの相棒が、諭す様に声をかける。

『落ち着け、人通りの多い所では何かと面倒だ……もう少し待つんだ』
「……わかった」

落ち着いた声に、少女の表情が元に戻る。
相棒は軽く息を吐き出して、少女が平常心を取り戻した事に安心した。
如何に慣れているとは言え、今回は『特別な』ケースだ。
まさか少女が在り得ないミスなど、と思っていてもやはり心配だ。今の反応でそれが杞憂であったとそっと胸を撫で下ろす。
僅かに乱れはあるものの、全て許容範囲内の出来事だ。鋭い視線を正面に向けたまま、彼も脚を早めた。
そう、もう直ぐ、もう直ぐなのだ。



「あれ、ここって何か建つんだ」

マナはふと足を止めた。駅前から少し離れた一角、あまり人通りの多くないその場所に、建設中の建物を見つけた。
既に数十メートルは高さを持っているだろうその建物も今日は工事も休みなのか、今はしんと静まり返っている。

「ほぉ、大型のショッピングモールだとさ」
「ふぅん……」

近くに立てかけられていた看板を見て、ヘルが口を開く。完成は丁度半年後、その頃には新しいビルがお目見えする訳だ。
青年と一緒にお買い物もいいなぁ、とふと思い至って赤面するマナを見ていたヘルが、何か言いかけた時。

「マナっ!?」
「えっ!?」

マナの直ぐ傍らを巨大な鉄骨がすり抜けた。
身動き一つ出来ないでいるマナの真横を飛び抜けた鉄骨は、アスファルトに突き刺さり盛大な騒音を撒き散らした。
呆然としているマナに駆け寄ったヘルが、血相を変えて問い掛ける。

「お、おい! マナ、平気か!?」
「……あ、う、うん」

まだ現状を把握できていないマナが、何とか頷き返す。
ほっとした様子を見せるヘルだったが、直ぐに真剣な表情となって鉄骨が飛んできた方向、建造中のビルの敷地へ目を向ける。
先ほどまでは感じられなかったが、何か得体の知れない感覚がヘルを襲う。

「誰だっ!! いるなら出て来やがれ!!」

その声に、僅かにざわついていた空気が停止した。
まるで時が止まったかのような空間で、じっとビルを睨んでいたヘルの瞳に何かが映った。
それはやがてマナの目にも映り、二人の視界の中でそれ――人影はやがて止まった。一人の少女と、一匹の獣。だが――

(何だ……こいつら……!?)

ヘルが心の中で戸惑いを見せる。
少女の傍らに控える一匹の獣は、狼の様な狐の様な、奇妙な姿を持っていた。
それより何より、その獣の身体には明らかな金属光沢が光り、間違っても普通の生命体でない事は確かだった。

『私の身体が珍しいか? 君とさして違わないと思うのだがね』

獣はそう言うと僅かにその口元を歪めた。奇妙に曇ったような声音だが、発音は明瞭だ。
きっ、と睨みつけるように自分を見るヘルに、その機械の獣は目を向けた。
一方で、マナも驚きで金属の獣を従わせている少女から目を離す事が出来なかった。
少女は背格好がマナとほぼ同じ――いや、むしろ『同じ過ぎる』。
だが、全体から醸し出される雰囲気はかなり違う。
マナよりも鋭角的で、顔のパーツ自体もマナよりもやや大人びた、と言うより『冷たい』感じがする。
そして何より、マナの目を引きつけて離さなかったのは、彼女の背中から生えている『金属の翼』だった。
だが、それはマナと異なり禍々しい――『蝙蝠』のような一対の翼。

「何……誰……?」

混乱した頭ではそれだけ言うのが精一杯だった。そして、それだけ言うのが『時間的にも』精一杯であったのだ。

「……っ!!」
「なっ!?」

マナが身構えるよりも早く、少女が駆け出す。右手に光が集まり、次の瞬間には強大なドリルとなってマナに襲い掛かる。

「マナッ!!」
『余所見してる暇はないぞっ!!』

フォローに廻ろうとしたヘルにも金属の獣が襲い掛かる。
きらめきを残して一閃した爪が、一瞬前までヘルの占めていた空間を切り裂く。
寸でのところでそれを回避したヘルが、舌打ちをして身構える。
一方で、少女の右腕から繰り出されたドリルは、マナの目前で盛大な火花を散らした。
咄嗟に展開したマグナ=インパクトが辛うじて間に合い、一撃を防ぎきったのだ。

「くっ……うっ……!!」
「……マナ」
「えっ……?」

ドリルの旋回音と火花が撒き散らされる中、少女はマナに僅かに聞こえる程度の声音で呟いた
。その思った以上に澄んだ声に、マナが一瞬気を抜かれる。彼女が自分を見つめる瞳には、何の色も認める事が出来ない。
まるで深い海の底を眺めているかのような錯覚に陥ったマナに、少女は続ける。

「………………『あなた』さえ死ねば『私』は『私』になれる」
「っ!?」

瞬時にドリルを弾き返して間合いを取る。
彼女の呟きを耳にした瞬間、マナの中にいいようのない悪寒が走った。単なる殺気ではない、何か嫌な感覚。
それに押される様にじりじりと後ずさるマナをゆっくりと少女が追う。
それを横目で見ていたヘルの姿が瞬時に変化する。身体に装甲が追加され、巨大な得物が手に握られる。
近距離戦用フォーム、クラッシャー=シフトへと変化したヘルを見て、金属の獣は唸るように笑った。

『そうこなくてはな、丸腰の相手を甚振るのは趣味ではない』
「悪ぃな、こっちはそんな余裕ねぇんだよ」

憎憎しげにそう呟くヘルの姿を気にもせず、獣は少女の方へ僅かに視線を向けた。

『カナ、こいつは私が引き受けた。お前は成すべき事をしろ』
「…………判った、フックス」

少女――カナが僅かに頷き、再びマナに襲い掛かる。マナはその攻撃を回避しつつ、次第にビルの中へと押し込まれていく。
ちっ、と舌打ち一つしたヘルが飛び出そうとした瞬間に、金属の獣――フックスの鋭い爪がヘルの背後にある鉄骨の山を断ち切る。
その一撃を上手くかわして着地したヘルが、フックスへと目を向ける。

「……ったく……何なんだよ、アンタらっ!! マナに何の用だっ!!」
『気にするな、どうせ言った所で無駄なのだからな』

そう言うとフックスは駆け出した。背中から翼のように刃が展開し、四肢の先端にある爪も光を湛えて輝きだす。
少なくともこいつを叩き潰さない限りはマナを助けにも行けないらしい。覚悟を決めてメガビームランサーを構える。
一刻も早くマナを助けに、そう考えるヘルだったが、それはフックスも同じだった。
一時でも長くカナに、そう考える二人は、ある意味で非常に良く似た存在であった。



「はぁぁぁっ!!」
「っと!!」

カナの繰り出すドリルを紙一重で避けながら、マナは建造途中のビルを右往左往していた。
何故自分が、そう思わないでも無かったが、とりあえず今はこの状況をなんとかしなければ。
カナの持っているドリルも、マナのマグナ=インパクト同様かなりの大型だ。
狭い空間へ引っ張り込めば何とかなると思ったのだが。

「はっ!!」

大きな弧を描いてドリルが旋回する。その軌道にある物は金属、コンクリート、プラスチックやモルタル、とにかく全てが撃ち砕かれる。
辺り一体を破壊しながら突き進んでくるカナに、マナの表情も引き攣る。
マナもマグナ=インパクトで応戦しているものの、そのパイルバンカーという武器の性質上、どうしても直線的にならざるを得ない。
つまり攻撃が読まれやすい。

「くぅっ!!」

苦しげに呟いて後ろへ跳躍する。
次の瞬間には、カナのドリルがその場所を貫き、直系2メートルを越える巨大な穴を開ける。
呼吸を整えるマナに、ゆっくりと立ち上がったカナが静かに視線を向けて小さく口を開く。

「『私』は『私』になるの…………『あなた』を倒して……」
「だから……貴方は誰なの……っ!?」

マナが肩で息をしながら問い掛ける。
自分と全く似ていない、そして良く似ているカナを見据えて、マナは奇妙な感覚に捕らわれていた。
言いようの無い、奇妙な違和感。それがマナの動きを幾分鈍くしている事も事実だった。

「……『私』は『私』、でも『私』は『私』になりたいの」

そう呟いてドリルを回転させる。
轟っ、と風が唸り、埃塗れのビル内部の空気が掻き回される。
再び構えるカナを目にして、マナは痛み始めた身体を庇うように構えを取った。



「でぇぇりゃぁぁ!!」

ぎぃん、という異音がしてフックスの右前足が宙に飛ぶ。
そのままがしゃりと地面に落下する自分の身体を横目で見て、フックスは切り刻まれた鉄骨の傍らに着地した。
見事に切断された切り口を眺めて、感心したようにヘルを見る。

『成る程、流石だ。伊達にその名を持っている訳ではないようだな』
「うるせぇ、これで勝負在りだ」

そうは言うもののヘルの身体も傷だらけだった。
身体のあちこちを切り裂かれ、ナノマシンによる再生も始まっているが、まだまだ塞がりきってない深い傷も少なくない。
メガビームランサーをフックスの目の前に突き出して、ヘルが見下ろす。

「もう一回聞く。アンタら誰だ、俺たちに何の恨みがあってこんな事しやがった!?」
『もう一度言おうか、言っても無駄だ。それに勝利を確信するのは少し早いぞ?』

そう言うと、フックスの身体が震えた。
咄嗟に距離をとったヘルの目の前でフックスの身体が霧のように変化し、切り刻まれた鉄骨の山を取り込む。
切断された右足も同様に取り込まれ、霧は渦を巻きながら巨大化する。
ヘルが睨みつける中で、霧は一つの塊へと変化し、ややあってそれは見慣れた姿を作り出した。

『どうかな、この姿。私の身体は生体融合ナノマシンで出来ていてね。無機物を取り込む事が出来るのだよ』
「……にゃろぅ」

そこに現れた姿、数倍に巨大化したフックスの顔を睨みながら、改めてメガビームランサーを握り直した。
どうやらこいつは一筋縄ではいかないらしい。



「あぅ!!」

工事用の道具もろともマナが吹き飛ばされる。
荒い息を吐くマナに、カナはその澄んだ瞳を向けながら一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
歯を食い縛って立ち上がろうとするものの、今の攻撃で全身を強く打ってしまい、思うように力が入らない。

「く……う……」

それでも何とか立ち上がるが、身体中の彼方此方が痛む。
ドリルを回転させながら近づいてくるカナに、辛うじて構えを取る。
埃の充満するビル内の空気が、カナのドリルによって大きく渦を巻く。
不気味な程ゆっくりと近づいて来たカナが、やがて一気に間合いを詰めてドリルを突き出す。
マナはその一撃を渾身の力を込めて受け止める。
破壊の跡が著しいビル内に甲高い、金属同士が擦れ合う音が響き、二人の顔を火花が照らし出す。

「…………『あなた』が消えれば……『私』は『私』に……」
「だ、だから……何で……!!」

まるで疲れを知らないかのように、カナはドリルを押し込んでくる。
それを受け止めながら、マナは辛うじて声を出した。
まるで『自分自身』をマナに求めているかのようなカナの意図が全く見えない。
それでもカナは手を緩めない。確実に、着実にドリルを押し込む。
マナも最後の力を振り絞って耐えるが、少しずつ少しずつ力負けしていく。
やがてマグナ=インパクトが目の前にまで迫り、ドリルの巻き起こす風までもがマナの顔を撫でる。髪が一本、ドリルに巻き込まれて消える。

「く、う、うぅぅぅ!!」
「……『あなた』は『私』になる、『私』は『あなた』になる…………『あなた』の全てが『私』になるの……」
「っ!!」

その言葉を聞いた瞬間、マナの脳裏を電撃にも似た『何か』が走った。
それは明らかに優勢を保っているカナにも感じ取れたのか、感情を表さない瞳に一瞬だけ訝しげな光が宿る。
と、マナが支えていたマグナ=インパクトに、カナのドリルが押し戻される。
軽い驚きの色を始めて顔に出すカナに、マナは渾身の力でドリルを押し返しつつ、言い放った。

「そんな事、させない!! ヘルも、大家さんも、絶対に……絶対に渡さない!!」
「……っ!?」

ドリルが大きく弾かれる。カナが数歩後ずさり、二人の間の間合いが広がる。
と言っても僅かに二メートル程、その気になれば一気に仕掛けられる必殺の間合いには違いない。
不退転の決意を瞳に輝かせるマナと、紺碧の海を思わせるなんの感情も映さないカナの瞳が空中で火花を散らす。
共に引く事の出来ない理由がある。決着の時は、指呼の間に迫っていた。



(拙いな……時間が掛かり過ぎている)

フックスは僅かに横目でビルの方を見て、内心で呟いた。原因は簡単だ、思った以上にヘルが手強い。
本来であればとっくにカナの手助けが出来ている筈だったのだが、今もこうしてヘルと対峙していなければならない。

『力量を見誤ったか……』

そう口に出して呟いてみたところで何も変わりはしない。
ヘルに目をやれば、こちらも一刻も早くマナを助けに行きたそうな顔をしてフックスを睨んでいる。
その顔を見て、フックスの心に僅かながら余裕が生まれる。
彼を此処に足止めしているだけでも、間接的にだがカナの手助けになっている。そう思い直すフックスに、ヘルの攻撃が繰り出される。

「てぃりゃぁぁぁ!!」
『くくっ……これもまた一興、か?』

自虐的な笑みを浮かべながら、切り込んで来たヘルの一撃をかわす。
鉄骨などを吸収して巨大化したとは言え、四速歩行生物特有の機動性の高さは損なわれていない。
一瞬無防備になったヘルの左半身目掛けて爪を繰り出す。だが、ヘルはその一撃をシールドブレードで受け止め、跳ね返す。
僅かに惜しそうな唸りを残して、フックスは一気に後方に跳躍し、体勢を立て直す。

「ほんっとに……しつこいな、アンタ!!」
『昔からそれが取り得でね』

幾分疲れたような声音でそう言うヘルに、フックスは満更でもなさそうに答えた。
改めて構えを取る二人の頭上で、盛大な音がしたのはその時だった。

「……マナっ!?」
『カナ……』

見上げる二人の視界に入ったのは、ビルの壁を打ち抜いて外へと飛び出してきたマナとカナの姿だった。
二人とも一定の距離を保ったまま、ビルの中ほどまで飛翔し、そのまま睨み合う。
お互いに次の一撃が最後の一撃になる。それは下から見上げている二人にもわかった。だからこそ迂闊には動けないのだろう。

「マナ……っ!!」
(急げ、カナ。時間が無いぞ……)

ヘルの口から案ずるような声音が漏れ、フックスが心から心配するような視線で見上げる中、空に止まった二人は微動だにせず、チャンスを伺っていた。

(ドリルって事は……多分、突撃系の必殺技。だったら……かわせれば、勝てる!!)

マナは同じ様に様子を伺っているカナの動きに神経を集中させながら、そう結論付けた。
今までの攻撃やドリルの特性を考えれば、カナの最後の大技は間違いなく一撃必殺の突撃技だ。
奇しくもマナと同系等の技だが、突撃系の技は連続しての発動が困難な場合が多い。
つまり一度外してしまえば、その時が相手にとって最大のチャンスだ。

「…………」
「…………」

お互いに無言のまま時間が過ぎる。ほんの数秒の時間が、二人にとっては数十分にも或いは数時間にも感じられる。
マナの頬を流れる汗が、顎に到って滴り落ちる。そして次の瞬間にカナが動いた。

「……はぁっ!!」

瞬時に間合いを詰める。マナはその動きに全神経を集中させる。
カナの右手が一瞬引き戻され、次いで高速の回転を与えられたドリルが渾身の力で繰り出される。

「…………ドリル・ブレイクッ!!」
「かわせ、マナ!!!!」

カナとヘルの叫びが重なった瞬間に、マナはカナの攻撃の軌道を読み取った。
突撃系のもう一つの弱点である攻撃の見極めの容易さはカナにも当て嵌まったのだ。

「たぁぁぁぁぁぁ!!」

マグナ=インパクトをガイドレール代わりにして、マナはあえてドリル・ブレイクに突っ込んだ。
身体をカナの右側、ドリルの方向へ傾けて半ば力技でドリル・ブレイクをかわす。
マナの左頬に僅かに切り傷が出来たが、それ以外は全くの無傷でカナの背後を取る。

「いっけぇぇぇぇぇ!!」

そのまま背中を向けているカナに向かい、今度はマナが突撃する。
だが、絶体絶命の筈のカナの顔に、それらしき表情は見えず、またフックスも表情に変化は無い。

『誰が一撃必殺と決めたかね、うん?』
「っ!?」

フックスの何気ない呟きに、ヘルが思わず振り返る。
既に完全に射程内に入り込んだマナだったが、次の瞬間信じられない光景を目にした。
カナの腕に装着されているドリルを含めたパーツの手の側と肩の側が回転して入れ替わり、今度はドリルの代わりに大きなピストン状のハンマーとなったのだ。そして、突撃の勢いをそのままに空中で回転し、マナと真正面からぶつかる形になる。一瞬躊躇したマナだったが、どうせ止める事は出来ない。意を決して、渾身の一撃を繰り出した。

「マグナ=インパクトッ!!!!」
「ハンマー・クエイクッ!!!!」

パイルバンカーとハンマー、両者が空中で激突する。途端に物凄い衝撃波が辺りを襲う。
ヘルとフックスも身を伏せて、それでも視線だけは外さずに二人を見上げる。
エネルギー同士がぶつかり合い、二人が渾身の力で繰り出した必殺技は、やがて力の均衡に耐える事が出来なくなった。

「う、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「マナっ!!」
「く、あぁぁぁぁ!!」
『カナ!!』

二つの必殺技によって生まれた力の均衡はついに爆発し、マナとカナ、両者諸共吹き飛んだ。
それぞれにヘルとフックスが血相を変えて二人の後を追う。
マナは工事現場に積み上げられていた青いシートの山に突っ込み、カナはビルの壁面に叩きつけられるところを、フックスが辛うじて防いだ。

「おい、マナ!! 大丈夫か!?」
「あたた……な、何とか……」

ヘルが崩れた青いシートの山に駆け寄ると、マナがふらふらになりながら自力で這い出てきた。
ほっと胸を撫で下ろすヘルだったが、まだ安心は出来ない。
視線をフックスの方に向けると、向こうも致命的なダメージは負っていないようだ。
足元が覚束ないが、カナは自分の足で立ち、尚も構えを取ろうとする。

「アイツら……」
「ヘル……退いて、まだ終わってない……」

マナもヘルの後ろで尚も構えを取るとする。
だが、異変は直ぐに起きた。辛うじて立っていたカナが突然崩れるように膝をつく。
途端に呼吸は不規則になり、顔中に脂汗が浮き出てくる。
マナとヘルが軽い驚きを覚えたほどのカナのあまりに突然の異変に、フックスは悔しげな顔をカナに寄せる。

『カナ、時間だ。残念だがここは引こう』
「でも……まだ一撃……」
『その身体でか? 『ガトリング』は『ドリル』、『ハンマー』よりも君の身体に負担を掛けるんだぞ。まだチャンスはある、ここは引いてくれ』

何が起きたか判らない様子のマナとヘルの目の前で、フックスにそう諭されたカナの顔に苦渋の色が浮かぶ。
だが呼吸は苦しく、目の前の光景も歪み始めている。少しの間迷っていた様子のカナだったが、ややあって小さく頷いた。

「……フックスが、そういうなら」
『有難う、カナ』

そう言って、マナとヘルの方へと視線を向ける。満身創痍のマナを庇うように前に出たヘルに、フックスは敵意の消えた目で応えた。

『悪いな、時間だ。ここは失礼する』
「……なっ!? ふざけんなっ、そんな言い訳が通用するとで」
『違うね、『通用させる』のさ』

ヘルの言葉を遮って、フックスは僅かに身体を揺すった。と、その身体が無数の霧と化し辺り一帯を覆い尽くす。
それこそ、僅か一メートル先も見えない程に。

「ちく……しょお!!」
『済まんね、だがここで手を引くのがお互いの為だと思うが?』

霧は数秒だけマナとヘルの視界を覆い尽くして消えた。
だが、その時には二人の視界からカナとフックスも姿も消えていた。
やり場のない怒りと、理不尽への恨みと、ほんの僅かな安堵感が一緒になった微妙な心境で二人が消えた場所を睨みつけているヘルに、後ろからマナが声を掛けた。

「ヘル……ヘルは大丈夫だった?」
「ん? ……あぁ、少しはやられたけどな、大きな損傷はない」
「そか……良かった」

ほっと一安心のマナに、ヘルもとりあえず人心地つく。
向こうが引いた理由は判らないが、確かにここで引くのがお互いの為であったかも知れない。
ヘルは全身傷ついているし、マナは満身創痍の状態だ。下手に長引いても傷が増えるだけに過ぎない。

「でもな……くそ、アイツら一体何なんだってんだよ……」
「……」

ヘルが悪態をつくのを聞きながら、マナはカナの瞳を思い出していた。
何処までも深く深く、澄み切った深海のような瞳。そこに何か薄ら寒い物を感じ取っていたマナだったが、その正体は未だに判らない。
だが、何か彼女とは戦わざるを得ない気もしていた。

「……『あなた』さえ死ねば『私』は『私』になれる、か」

カナの言葉を繰り返すように呟いた瞬間、謎が氷解した。
それは完全に感覚に過ぎなかったが、マナにはそれが真実だと確信できた。
カナの、深く澄んだ瞳に見えた薄ら寒い物の正体。彼女には『自分自身』が存在しないのだ、と。



『カナ、大丈夫か?』
「うん、へいき……」

カナを背中に載せて運べるサイズにまで戻ったフックスは、背中で横たわるカナに優しく声を掛けた。
カナは目を瞑っていたが、声は幾分落ち着いているようだった。
そっと胸を撫で下ろし、人目を避けるように路地裏のビルの屋上を駆けるフックスに、カナは小さな声で尋ねた。

「フックス……次は……」
『心配ない、君は強い。次は大丈夫だ』
「本当……『私』は『私』になれるよね……」
『…………あぁ、勿論だ』

そうだ。そうでなくてはならない。安心したようにゆっくりと目を閉じるカナの重さを背中に感じながら、フックスは一人誓った。
そうでなければならない。いや、そう『しなければならない』。
その為にどんな事になろうとも、カナが望んだ事ならば自分はその為に尽くす。
例え悪と弾劾されようとも、尽くす。それが『贖罪』に他ならないのだから。
日はまだ高い。背に少女を乗せた異形の鋼鉄の獣は、己が誓った思いを胸に、陽光の下を疾走していった。


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